なにやら、結局、前回の時代変化に対する思考で頭が支配されてしまった。
と、いうことで、
まー、「構造新時代」と題、打ってしまいましたが、いつの時代も次の時代を創っていく世代の人がいて、常に新時代であることに変わりないのだと思います。
そんな今の新時代を個人的に表現させてもらうと、「構造格差時代」。
偽装事件から発展して今に至り、そして、しばらく、というか、これから続いていく、というか、これから始まったばかりの時代。今は構造格差時代の初期だと思う。
法律が示す方向は、誰がやっても同じ解答。
なにやら、聞こえがいいような!?
現実の内容は、限りなく構造設計の自由度をなくすことにつながり、つまり、一貫計算ソフトに乗るように設計計画を行うこと。
構造設計者の技量は、ソフトの技量に等しい。ソフトの開発、バージョンアップが、構造設計者の技量向上につながる。
意匠設計に自由度はない。
方や、雑誌で眺めるような建築は、むしろそんな現状はお構いなしといわんばかに自由度の高い建築ばかり、というか、そんなのしかない。
後者に対する前者の言い訳は、お決まりのように「設計コスト」、「設計工期」、「人員」。
その文言は間違いではないけれど、現実、核心ではない事実がある。
格差が生まれる問題の核心は、構造設計者自身にあると思う。
耐震壁と床板、鋼支柱だけで成り立つ構造
水平力と鉛直力を負担する材を分けた平板のみで構成される構造
壁一枚で横力はおろか鉛直力からも解放したような構造
スレンダーな構造
自由な形態
そういう雑誌や文献に載る構造システムの解説は、決まって、恐ろしいほどあっさりと言いのけている。
理解できないというより、受け入れ難い感覚を覚える。
現に、そういうモノに対して批判的な構造設計者もいる。
しかし、その批判という意味を成さない行為は、時代を見えなくしているように思う。
何も信じない人間には、もう時代を見ることは出来ない。
仮に、それが否定という行為なら話は別。
何故なら、否定には根拠が必要で、この場合、その根拠は実績ということになる。
しかし、自由度のない一貫ソフトに依存する構造設計者が、応答解析やFEM解析などの構造自由度が一気に広がった世界に放り出されたときに成せる行為は範疇と思うのは私が間違い!?
前者が常識な日常の地方。
後者が常識的事象として扱われる中央。
今は、この格差が広がっていく時代の初期であるとみえるのは私の見当違い!?
大それた表現をさせて頂くと、哲学にも近いこのシリーズは、新しい知識を得る度にちょくちょく頭を支配して、ちょくちょく続いていくような気がします。
八百五福さんも、その内、このシリーズ、始めてくれないですか!?
そっちのは、結構、面白い哲学をみれそうな期待があります。
このシリーズの結語が核心になるかは判らないですけど、意義のあるものになればいい。
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