最近、感動した構造システム。
小西泰孝氏が構造設計をされた”神奈川工科大学KAIT工房”です。
日本建築学会発行の建築雑誌2010.3月号にその解説が載っていたので少し紹介されたい。(英文を直訳したため、堅苦しい表現には我慢、願いたい。)
”KAIT工房の内部構成の複雑性の為に、石上と構造技術者の小西泰孝は可能な限り単純な建物支持システムの保持から試みた。見た目は区別が出来ないが、垂直方向と水平方向の主要な耐荷重性要素で構成される。どちらも柱のように設置されているが、片方のグループは小さいせん断壁のように挙動する。白い塗料で覆われた、互いの支持は実際には鋼板の薄片である。設計者と技術者の厳格な仕様によって、それは3つの異なる厚さの平板からさまざまな幅に切断された。・・・”
実は、
この建物は以前から存じており、
しかし、
理解というか納得が出来ずに、
勝手な解釈で、終わらせていましたが、
先日、幸運なことに、
本人に直接、この構造を伺うことができて、
感動の余りに、紹介させてもらいました。
泰孝氏直々の解説は、上解説と当然ながら同じ構造を語っておられ、そこが困惑させられるが、直々だけに納得せざるを得なかった。
構造は、
そんなことが・・・できる・・・の!?
という程に、非ジョーにシンプルで理解しやすい。
仮に、
こんな合理的なシステムを、意匠設計者が提案してきたら、
構造技術者は”ギャフン”としか、発言できない。
しかし、
このような、素晴らしい構造を実現するには、
1%のセンス と 99%のノウハウ
が必要と、信じたい。
逆なら、個人的に空し過ぎるから・・・。
(写真は http://www.u-presscenter.jp/uploads/photos/708.jpg より引用)
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木曜日, 4月 08, 2010
「こと」のデザイン
はじめまして。このブログは金沢の20~40代の男女の建築士5人が自由に金沢や建築や住宅の周辺について話します。共通の指標や目標があるわけではありませんが、なぜか面白い場所になる予感だけは共有しています。
5人目の顔見せとして自分の指標的なことについて書いてみます。
「ことのデザイン」
この言葉に出逢ったのは20代のころ、かばん持ちとして師匠に同行し吉武泰水先生のお話を伺う機会に恵まれた時でした。そこで「ことをデザインする」という当時は聞きなれない言い回しに戸惑い、心の中でつぶやきました。
デザインするとは「もののかたち」のことやろ?
今でこそシステムデザイン・環境デザイン・生活デザインなどいろんなものに「デザイン」がつくようになりました。しかし当時はそれほど一般的な言葉づかいではなかったような気がします。
実務に戻りひたすら終わりの見えないスケッチを繰り返し、資料をむさぼる事を繰り返しています。悩んでいるのは形ではありません、周辺との関係、人の動き、家族の構成、彼らのスタイル・趣味嗜好、未来での変化、古さへの畏敬、外と内の関係、自然との関わり、風景の事、合理性、予算、安全そしてプロポーション等々…。
無間地獄のように繰り返される想定問答、それらすべてがしっくりいっていると感じた時に一旦問答は中断されます。 ………ここが「できた」瞬間です。
驚くべきは「もの」を形づくるための作業の大半は「こと」の創造に費やしていたのでした。
「ことのデザイン」という言葉は設計者の思考過程を端的に言い当てていることに気づいたとき、デザインという言葉の印象が軽薄さから重要な言葉に変化してしまいました。「ことをデザインする」からこそデザイナーではなくアーキテクトなのだろうと。
少なからず専門家への誤解があります。建築家に頼むと自分のデザインを実現するがために変わった形になる、メーカーや工務店なら機能的でしっかりした家になるなどと。
いずれも全てを否定はできませんが機能的であれ、奇抜であれいずれも「もの」の域を出た評価ではありません。
良質な建築家はこのことを体得している。 …と、信じています。
5人目の顔見せとして自分の指標的なことについて書いてみます。
「ことのデザイン」
この言葉に出逢ったのは20代のころ、かばん持ちとして師匠に同行し吉武泰水先生のお話を伺う機会に恵まれた時でした。そこで「ことをデザインする」という当時は聞きなれない言い回しに戸惑い、心の中でつぶやきました。
デザインするとは「もののかたち」のことやろ?
今でこそシステムデザイン・環境デザイン・生活デザインなどいろんなものに「デザイン」がつくようになりました。しかし当時はそれほど一般的な言葉づかいではなかったような気がします。
実務に戻りひたすら終わりの見えないスケッチを繰り返し、資料をむさぼる事を繰り返しています。悩んでいるのは形ではありません、周辺との関係、人の動き、家族の構成、彼らのスタイル・趣味嗜好、未来での変化、古さへの畏敬、外と内の関係、自然との関わり、風景の事、合理性、予算、安全そしてプロポーション等々…。
無間地獄のように繰り返される想定問答、それらすべてがしっくりいっていると感じた時に一旦問答は中断されます。 ………ここが「できた」瞬間です。
驚くべきは「もの」を形づくるための作業の大半は「こと」の創造に費やしていたのでした。
「ことのデザイン」という言葉は設計者の思考過程を端的に言い当てていることに気づいたとき、デザインという言葉の印象が軽薄さから重要な言葉に変化してしまいました。「ことをデザインする」からこそデザイナーではなくアーキテクトなのだろうと。
少なからず専門家への誤解があります。建築家に頼むと自分のデザインを実現するがために変わった形になる、メーカーや工務店なら機能的でしっかりした家になるなどと。
いずれも全てを否定はできませんが機能的であれ、奇抜であれいずれも「もの」の域を出た評価ではありません。
良質な建築家はこのことを体得している。 …と、信じています。
長文を最後まで読んでいただき感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。
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21世紀・・・
水曜日、初投稿…。
このブログがどこに向かって行くのかは未知ですが、金沢で建築の設計に携わっている私たちが日々何を考え、何を目指しているのかを表現できれば良いのかと…。
そして、お互い切磋琢磨して行けば、必ず何か大切なものが見つかるのではないか。
そこで、今回は21世紀の建築について書こうかと。
20世紀の日本は、高度成長の中、大量生産・大量消費で社会経済は急成長を遂げました。
しかし、その代償として地球環境への負荷が増大となり、社会問題となっている。
昨今、省エネルギー・省資源・リサイクル等が叫ばれ、大量消費型社会から循環型社会への変化を求められているが、なかなかすぐに変われるものではない。
これまでの固定観念を取り除き、新たな視点で発想転換をしなければいけない時代なのかと思う。
また、今までの絶対的な信頼も崩れ、何が正しいのかわからなくなっているように思う。
建築業界では、アスベスト問題・耐震偽装問題・防火認定偽装問題等、絶対的な信頼が崩れて行った。
21世紀の建築は、日本の風土に合った先人の知恵を学び、原点回帰・温故知新することが必要だと思う。
それが、サスティナブル建築の近道であるような気がしている。
ちなみに、今まで建築基準法で認められず、不適合建築物扱いをされていた木造伝統工法が、実証実験で耐震性能が見直され、数年後には建築基準法で認められると言うHotなニュースもあるようで…。
次回からは、少し納入事例もご紹介できればと…。
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このブログがどこに向かって行くのかは未知ですが、金沢で建築の設計に携わっている私たちが日々何を考え、何を目指しているのかを表現できれば良いのかと…。
そして、お互い切磋琢磨して行けば、必ず何か大切なものが見つかるのではないか。
そこで、今回は21世紀の建築について書こうかと。
20世紀の日本は、高度成長の中、大量生産・大量消費で社会経済は急成長を遂げました。
しかし、その代償として地球環境への負荷が増大となり、社会問題となっている。
昨今、省エネルギー・省資源・リサイクル等が叫ばれ、大量消費型社会から循環型社会への変化を求められているが、なかなかすぐに変われるものではない。
これまでの固定観念を取り除き、新たな視点で発想転換をしなければいけない時代なのかと思う。
また、今までの絶対的な信頼も崩れ、何が正しいのかわからなくなっているように思う。
建築業界では、アスベスト問題・耐震偽装問題・防火認定偽装問題等、絶対的な信頼が崩れて行った。
21世紀の建築は、日本の風土に合った先人の知恵を学び、原点回帰・温故知新することが必要だと思う。
それが、サスティナブル建築の近道であるような気がしている。
ちなみに、今まで建築基準法で認められず、不適合建築物扱いをされていた木造伝統工法が、実証実験で耐震性能が見直され、数年後には建築基準法で認められると言うHotなニュースもあるようで…。
次回からは、少し納入事例もご紹介できればと…。
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火曜日, 4月 06, 2010
Sydney Opera House part1
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