水曜日, 2月 16, 2011

マイノリティーな西(その1)

金沢は犀川と浅野側という2つの川があってその真ん中が中心市街となっています。川の外側にそれぞれコミュニティーができあがっていて、極が2つある感じがします。人もなんとなく犀川人と浅野川人みたいな気質というか、巨人阪神みたいなファンというかそんなことを感じているのはじぶんだけなのでしょうか?芸妓の踊りも東は西は西川流と違うそうです。
そうです、芸妓さんが金沢にはまだいらっしゃいます。金沢には有名な茶屋街が3ヶ所現存します。
東・西・主計の三つは,まだお茶屋の営業されています。
特に有名なのは東の茶屋街、観光ポスターなどによく使われており、早くから街の整備もされていました。
自分は地元が犀川の左岸で、西の辺りが子供のころからの行動範囲だったので「西」のほうが親しみがあります。何年前ころからか西の茶屋街も整備・修景されて観光の人々も見かけるようになりました。


建物の履歴も東の方がずっと古いそうです。
西は江戸時代からよく火事の多かったところで比較的建物が新しいです。
その訳は西も東も川の近くにありますが西側が河原の東の茶屋街よりも、西側が集落の「西の茶屋街」のほうが西風でもらい火をしやすかったと「まいどさん」に聞きました。
建物の特徴は町家よりも2階の階高が高いところです。町家は1階が主空間で2階はうちでは「アマ」と呼んでいましたが基本物置で、居室の場合も小屋裏に仕上げを施して住んでいる感じで天井は低かったです。しかし茶屋建築は2階がお客さんが遊ぶ座敷になっていますから階高に余裕を持たせてあります。一説には江戸時代は不敬になるから、庶民は2階に部屋を作ることを禁じられていたが茶屋は特例だったとか。
京都と違うのは「置屋」はなくて芸妓さんはその茶屋に住んでいたといいますから職・住が一体化されていたのでしょう。

30~20年前は暗いイメージで観光客がとても通るような町並みではなかったです。江戸から昭和前半までは活気があったのでしょう、ここ10年ぐらいも観光資源として活気付いてきています。多分自分たちが子供のころが一番寂れていた時期なのかもしれません。上町も下町もいっしょくたんにウェットな感じでした。

片町で会合があった帰りに西の茶屋街を通ってみたら、結構お迎えのタクシーが停まっています。まだまだ現役の街であることがよくわかりました。
寒そうに車の外で立っている運転手さんに、忙しいか聞いてみると結構迎えの依頼があるそうです。一時期は寂れてしまって危機だと聞いたころもありましたが、この不景気に忙しとなるとそうでもないのでしょう。彼によると、やっぱり会社の接待、それも県外の企業の方を金沢でもてなす地元の会社という構図が圧倒的に多いそうです。 この西に観光に行ってもお土産を買うようなところは充実していません。でも上町・下町セットになって町の雰囲気が残っているので切り取られたような東とは違う価値が充分あるとおもいます。
ちなみにこの通りの「かわむら」という甘納豆やさんはおすすめです。

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