木曜日, 10月 20, 2011

茶室でお茶会2

前回のお茶会の続きです。
いよいよご亭主がお茶を点てられるのですが、大きな道具が2つ目に入ります。
風炉と漆塗りの棚、そのうちのツマ紅の棚がなんともかっこよい、黒い漆?塗りに小口だけ朱に塗り分けられている。うーんドミノみたい…。単純な道具だけどスレンダーできっちり作り、仕上られている。気になるのでお点前が終わってから先生になんていう棚か聞くと「更好棚(こうこうたな)」と呼ぶそうです。
このお茶会は座敷で行なわれましたが茶会が終わってから、移築された松声庵を拝見しました。薄暗く狭くまさしく小宇宙、あんまり分析できませんがグッと来ましたね、これが空間の力というものか…。



汎用性のある日本文化と前回いいましたが、ここまで究極のスケールの場所は茶室以外には使えませんね。汎用性のある道具を駆使して専用の空間を造る…それが贅というものか。それも日本らしい贅沢かもしれません。

月曜日, 10月 17, 2011

茶室でお茶会

先日親子お茶会に出ました。
お茶会というより、超初級お茶作法教室という感じです。
襖の開け方、畳での座り方、立ち上がり方、床の鑑賞姿勢など本当に超初級、懇切丁寧に教えてもらいます。
お菓子が懐紙に乗って出てきます。食べ物が器ではなく紙に乗っている事、それを床の上に直に置く事、上下足の習慣がある日本ならではの作法だなとつくづく実感。
懐紙や畳の部屋のユニバーサルな感じがいろんな物にあるのは日本的ですね、風呂敷なんかもそう言えるでしょう。
茶道に臨む服装、ここでもマルチミー二ングな道具が登場します。今回は参加者全員普段着なのですが、扇子だけは必要と貸し出されます。
席について、お辞儀をするさい扇子を自分のひざの前に置き挨拶します。そしてお菓子を頂く時には背後の床に置きなおします。
これは扇子で「結界」をつくり下の世界からご亭主にご挨拶をするということだそうです。
挨拶が済んで扇子を後ろに廻して「結界」が解かれてお菓子が出てくるという寸法です。
扇子は涼風器でもあり、結界にもなり、江戸の後期では切腹の短刀の代わりにもつかわれていたそうです。そういえばバブル景気の頃はジュリアナでも象徴的に振られていましたね。ハレからケまでの意味をなす扇子っておもしろいし、6寸位の紙束一本で空間に意味を見出す日本人もおもしろい。

火曜日, 9月 27, 2011

古本屋

休日、用事があり街へ行きました。そこで古本屋のオヨヨ書林がせせらぎ通りにオープンしたのを思い出し寄ってみました。
店主は旧知の女性、ちょっと会わないといつも違う事をしている、建築好き、本好きの才女。






店は、大正期の鉄工所を改装して使用しています。なんちゃって帝冠様式かな?
古本の雰囲気にぴったり。
私は古本屋が好きで、特に県外行ったときに街角で見付けると結構ふらっとはいる癖がある。そうすると、旅の途中なのに重い荷物を持って帰るはめに…。
今回はルイス・カーンの古本を購入。

そういえば、子供のころ近くの「島」という50円のお好み焼き食べるのによくうろうろしたけど、いつのまに「せせらぎ通り」って言うようになったのだろう…。

月曜日, 9月 12, 2011

石川国際交流サロン


石川国際交流サロンへ行ってきました。
場所は21美の後ろ。
この辺、本多町や里見町とか周辺にはわりと大きめの古めかしい民家がポツポツ残っています。
そんな中内部が見れるのは今は公共施設となっている国際交流サロンです。
間口の狭い軒の低いいわゆる庶民の金沢町家は結構古くからそこに住み続けている人がいたりしますが、中心街近くの住宅は元の家主がリッチマンが多く、面積も大きく、手が込んでいます。リッチマンであるからこそ、栄枯盛衰が激しく、何回も家主が変わっているそうで、今は料理屋さんなどになっているところが多いです。このサロンは自治体が購入して交流サロンとなっています。
大正期の住宅で、元加賀八家の横山家の邸宅だけあり、土蔵が玄関横に備わります。それと奥のプライベートの棟と挟まれた中庭が美しいです。その二つをつなぐ様にたぶん元客間だったと思しき座敷の棟があります。
玄関からは中庭は見えずあまり奥行きが感じません、座敷に向かう廊下を通るとパッと開けて、急に中庭を中心とした美しい奥行きある空間に飛び込むような演出がされた導線になっています。
そして、奥の間に進むにつれて、庭木が密になるように仕掛けてあり、そんなに広いお庭ではないのですが凄く奥行きを感じさせるつくりになっています。
縁側は珍しく畳敷きで、アルミに入れ替えないで木製の建具のままです。現在のエコ住宅推奨の流れには逆らっていてきっと冬は寒いんでしょうが、それでも何物にも変えがたい雰囲気があります。 この日は暑い日でこれも今では珍しい簾戸がいれてありました。幼いころよく見た光景でなんだか感動してしましました。レイヤー・フィルターとかいって格子や半透明の素材で空間を重ねて見せるのが現代建築にも見られ毎回感心しますが、簾戸がこんなに心に響くのは幼い時の経験が断絶していたからよけいなんでしょうか。 建物の解説をしてくださったサロンの方が、文明だけが先走ってはいけない、文化を発展継承するために文明が役立たなければ、そしてたぶん日本人は美しい事を排除できないというようなお話に納得。

水曜日, 8月 10, 2011

夏祭り

地元の夏祭りが終わりました。
金沢には大きな・古いお祭りというのはありません。金沢育ちの人間は能登地方の派手な大きな祭りに憧れてるというのは私の勝手な思い込みでしょうか?
現在の市内でいえば金石のお祭りに伝統がありますが、金石は昭和の初めに編入されたので金沢の伝統というとはばかる方もいらっしゃるので微妙です。
地元の夏祭りは小学校のグラウンドで小さな櫓が組まれる盆踊りです。派手な山車もなく、神様や先祖を奉ったり、豊作・豊漁を祈願するわけでもありません。古い歴史があるわけでもありません。
それでも人は「祭り」を催したくなるようです。
そっけないグラウンドに装置は提灯と櫓と紅白幕だけ、昼間見るとけっこう寂しくて、これで盛り上がるのか?とおもいますが、薄暗くなってくると浴衣の子供と極少ない出店とあいまって、見事に祭りの空間に変身します。空間の雰囲気は装置だけで出来上がるものではないのがわかります。派手さも荘厳さもありませんが、祈願するのは地域住民の繋がりです。

金曜日, 8月 05, 2011

天徳院




天徳院
前回書き込みしました小立野小学校のすぐ近くに「天徳院」という寺院があります。
これは皆さんご存知のように、江戸に人質として行ったおまつの方の代わりに江戸から来た玉姫の菩提寺です。
この寺院は黄檗建築様式で金沢では珍しい部類だと思います。寺院の様式は柱と横架材の接合部の形や間隔で見分けますが、まあ専門家でなければ解りにくいです。
その点黄檗様式は窓が真円だとか、正方形の格子だとか手すりがラーメンの鉢のマークみたいな四角い渦がただとかサイン的で見分けやすいです。モダンっぽいといえば言えなくもないし、中華っぽいと言ったほうが当たっているのかもしれません。


先に書いた小学校は江戸時代はこのお寺の境内地でした。
石引通りに平行・垂直に涌波から小立野・石川門までの街路が形成されていますが天徳院の参道は変な方向に曲がっています、地図を見ると天徳院の周辺一体のグリッドが東側に30度ほどずれています。従って小学校や金沢商業の裏手には三角な敷地があります。し天徳院の山門の入口にも三角地があります。
これはなんでなんだろうと不思議に思ってグーグルでそのグリッドの角度で東に行くと皇居にいたります。すなわち江戸城の方角に向かって天徳院は建っているような気がします。
これは偶然なのでしょうか?それとも加賀と江戸の友好の証左として女性二人が入れ替わった事に思いを馳せて建てたのでしょうか?(詳しい方教えてください。)
だとしたら江戸時代の測量技術の高さには驚きです。
また、そんな思いを建物に込めた誰かにも共感します。